microcosmos  4

日々の思索

本村俊弘の霞ヶ丘日記(75)

2014年(平成26年)9月3日(水)


午前6時設定のアラーム音で目覚める。同10分頃に起床する。朝食後に入浴する。午前7時16分頃に出勤する。お天気は晴れ。朝日を浴びながら、駅へ向かう。街灯の細い影が僕の行く手を遮っていた。その影にとらわれていた僕を、一陣の涼しい風が百日紅の木の方から吹き抜けていった。心地よさに影の意識は消えていた。ハッとして歩みを早めた。通勤急行池袋行きの電車に乗る。途中の駅で始発の各停池袋行きの電車に乗り換える。最後尾の車両に座席が空いていたので、腰掛ける。五感をどのようしたら開放出来るのか、状況によっては閉鎖しなければならないときは、どうしたらいいのかを考える。「次は成増駅」という車内アナウンスが聞こえた。Narimasu、Narimasuと車掌は連呼し始めた。仕事を終えて帰宅の途につく。帰りのバスの中でパルシステムに発注する食料品を選ぶ。catalogにballpoint penで記しをつける。今日は注文した食料品などが届く日である。スーパーマーケットに寄らずに、まっすぐ帰宅する。










2014年(平成26年)9月2日(火)

仕事を終えて帰宅の途につく。バスから見える風景を見る。バスは西台経由で、板橋区蓮根を走行している。風が吹いているのだろう。植木が揺れている。空をみると青空がところどころに見える。夕方の空は静かだ。通勤する路線バスの道は意外と坂が多い。それでも自転車を利用している。自転車が発明されて相当な時間が経っていると思うが、いっこうに消える気配はない。それどころか、環境問題と健康志向がより合わさって、隆盛している。日本の道路事情は自転車にとってあまり芳しいものとは言えないだろう。自動車と自転車の住み分けがなされていないために、自動車と自転車との事故が増加傾向にある。非常に残念なことである。先ほどまで青空が見えていたのに、もう暗くなっている。もう僕は時間の外にいるのかもしれない。時間に対して無力である。時間と何か競い合っているわけではないのだが、時間という大海の中で木の葉のようにゆれている。時間を超えるものはあるのだろうか。この世に生まれることは、時間を付与されることだが、付与された時間は一人一人同じ時間ではない。固有の時間である。自由であるために。








2014年(平成26年)9月1日(月)

午前1時40分頃に床につく。午前5時50分頃に目覚める。暫くしてから起床する。仕事を終えて、帰宅の途につく。小雨が朝から降り続いている。夕陽もなく一気に夜の暗さが降りてきた。昨日まで8月だったのに、もうその8月がどこにも見あたらない。呼べば返事をしてくれると思っていたのに、返事はない。冬に向かう時の歩みに、一抹の不安を僕は感じ始めていた。冬を越せるだろうか。寒さに耐えられるだろうか。どんな冬が僕を待ち受けているのだろうか。今までの経験が果たして役にたつのだろうか。経験したことのない異常気象に人はどう対処すればいいのだろうか。なるようにしかならないのだが。傘があるのはあたりまえではない、家があるのはあたりまえではない。あたりまえでないことがこの世を支配している。冬の寒さに如何に耐えるかを、八月に働いた蟻たちは知っている。










2014年(平成26年)8月31日(日)

午前6時頃には青空が見えていたが、8時頃になると曇天になってしまった。気温は高くならないかも知れない。生活は決断である。何故そう言えるのか。それは日々起きていることだからである。自分の正面に据えているのものは、意識化と言語化である。この二つは内面の事柄と全て合致しているものではないが、内面のことに非常に近接している。物事は微妙な均衡の上に成り立っている。決断のことに戻れば日々、行くのか行かないのか、食べるのか食べないのか、約束するのかしないのか、買うのか買わないのか、捨てるのか捨てないのか、見るのか見ないのか、着るのか着ないのか、書くのか書かないのか、結婚するのかしないのかなど、人は数限りなく決断をしなければならない状況にある。
午前5時53分頃に目覚める。しばらくしてから起床する。用を足す。洗面と歯磨きをする。お風呂を追い炊きする。朝食の準備をする。塩ラーメンに胡麻胡麻油とハム2つとトマト2個をカットしたものと千切りしたキャベツ。鍋の水が沸騰するまで、ベランダに置いている観葉植物と薔薇に水をやる。急いで台所に引き返してラーメンを仕上げる。国際ニュースを見ながら食べる。ロシア軍のウクライナ東部への侵入が、大きな問題として取り上げられている。EU首脳会談が開かれているが、議題が対ロシア制裁強化に変わってしまった。ウクライナの大統領も招かれている。食後、文を書いていたが、時計を見ると10時を過ぎていた。急いで入浴して、衣服を着替えて外出した。徒歩で教会へ向かう。ミサはもう最後のほうに進んでいた。聖体拝領を受ける。ミサ後、Y紙を購入する。ガストに入店してドリンクバーを注文する。Y紙を読む。午後12時38分頃に店を出る。エアコンが効きすぎて寒いぐらいだった。職場で着るズボンの裾上げをしてもらうために、スーパーの2階で営業している裁縫店へ行きお願いする。料金は970円だった。午後1時20分に帰宅する。午後6時からBSで、大河ドラマ「軍師 官兵衛 (35)秀吉のたくらみ」を観る。伴天連追放令キリシタン禁教令が博多の箱崎で宣告された。午後7時からNHKニュースを見る。新潟の若者にデング熱の陽性反応が出たと、トップニュースで報じている。若者は専門学校生で代々木公園へ行ったことがあるそうである。東京都は蚊を駆除するために、駆除剤を噴霧しているそうである。
   日本語で生きるのではなく、日本語を生きる。そのようにありたい。それは大変なことだと認識する。それでも日本語を生きることにこだわる。自分なりの方法論を考えなければならない。日本語を生きることこそ運命と知る。曖昧なまま日本語を放置しないこと。日本語よ豊かであれ。そのために働かせたまえ。
陽明学の核心は知行合一









2014年(平成26年)8月30日(土)


1週間の仕事を終えて、帰宅の途に着く。西日を浴びながら、バスは走っている。久しぶりに空の青さを見る。低い雲は風に吹かれて、動きがはっきりしている。低い雲の上には白い高層雲がある。バスは板橋区立図書館前を通過して、それから団地内を横切っていく。生活を停滞させてはならず、前に歩を進めなければならない。道徳が生活を規定するのではなく、生活が道徳を規定するのだ。このときの道徳とは、日々の暮らしの中で獲得され、習慣化された善行のことである。生活の中から導き出されたものを、軽んじないようにしたい。一人一人の生活はかけがえのないものである。自分の生活となれば、尚更のことである。人は生活を守ろうとする。僕は生活が破綻することを恐れる。生活がなければ、意識化も言語化もままならなくなってしまう。生活を成り立たせているものを常に補強しながら、明日の生活に備える。僕は明日も便器を磨き上げ、食器を洗い、衣類を洗濯するだろう。いやいややるのではなく、進んでやるところに意味が発生する。可能性が広がるのだ。何事も主体的にやることにおいては、時間がもったいないということにはならない。ある程度行為が意識化されたなら、次はいかに早く行うことが出来るかに重心を移すだろう。









2014年(平成26年)8月29日(金)

今日も冷ややかで凌ぎやすい一日だった。今にも雨が降りそうなお天気だったが、通勤時には雨は降らず助かった。日が暮れるのが早くなった。帰りの電車の中で職場で発した言葉を、反芻する。不必要な無駄な言葉はなかったか、軽率な発言はなかったか、早口にならなかったかなど反省してみる。面倒くさいことかもしれないが、向上するためには必要なことだ。口から思いもしない言葉が飛び出すときがある。そのようなことが起こらないようにしたい。落ち着いて、間を起きながら相手とお話したい。その間に適応出来る筋肉の動きを修得しなければならない。何かを実践するためには、意志だけの問題ではなく、肉体的な訓練を必要とすることが多い。具体的に言えば、筋肉を自由自在に動かすことである。直ぐには出来ないことで、時間がかかる。これら一連の総和が経験という言葉に集約出来るのではないだろうか。









2014年(平成26年)8月28日(木)

夏の果てしない闘争も終わり、半袖シャツが急に場違いな衣服に思えた一日だった。ニュースでは代々木公園の蚊に刺された若者たちが、デング熱を発症したと伝えている。都の職員が捕虫網で蚊を捕獲していた。捕獲した蚊を調べたが、デング熱を発症させるウイルスはいなかったそうだ。ひょっとしたらこのデング熱広島市の同時多発土砂崩れはつながっているのかも知れないと思った。自然は人間の身方ではない。それは人間が自然の身方ではないように。人間は自然の一部と言いながら、人間は自然を人間の一部のように取り扱っている。人間が滅ぶのは間違いないことだが、それが何時なのかは人間の行い次第である。
 言葉と僕の間には境がある。その境を何らかの方法で解消して、体内の中に取り込めるようにしなければらない。別の言い方をすれば、言語を血肉化する方法を探るということだ。言葉は親和性がよいとはいえない。さらに僕と言葉は乖離しやすい状況にある。日常使う言葉一つ一つを噛み砕いて、意味を吟味している。使っている言葉を根本的に理解するとは、定義することではないかと思う。人間とは何か、自然とは何か、と考えるように。









2014年(平成26年)8月27日(水)

生活の見直しは日々必要なことである。昨日と今日は明らかに違う。テニス選手が打ったラケットの網目を直すように、日々修正しなければならないことがある。僕は自分の為すことに意識化することを日課のように取り組んでいる。コンビニやスーパーで並ばれている状況で小銭を財布から出すときに、意識化することを忘れている場合がある。自分が意識化していない行為や状況を考えてみなければならない。行為の中には手順があるものもある。食器や鍋を洗うとき、洗濯物を干すとき、外出する時などの行為に手順がある。時間をかけて完成させた手順を、新たに組み替えて新しい手順でやってみることが、意識化の中に含まれる。始めはストレスにみまわれることになる。動きに無駄をなくすこと。これは美しさに繋がっていくものである。困難さを痛感する対人関係の中での会話も、この美しさを基本としたい。仕事上でも私的な事柄でも、基本は変わらない。電車やバスの座席に座るときも、意識化するという行為の下に座るのである。意識化は意識を尖鋭化するものではない。歩く、立つ、座る、掴む、眠る、食べるなど動詞を自分のものにすることでもある。僕が必要としていることは、五感の開放である。意識化には注意力、観察力、洞察力が必要である。これらの諸力の協力のもとに行われることが望ましい。意識化とともに、言語化も同時平行して取り組む課題である。意識化を定着するために言語化は有効な手だてである。意識化は年に一度のお祭りのようにあるならば、さほど意味はない。意識化は日常の中で行われることが、相応しい。意識化の過程で、内部で目覚めてくるものをつかめればいい。言語化することによって意識化が定着し、再現しやすくなることを期待する。