microcosmos  4

日々の思索

本村俊弘の霞ヶ丘日記(38)

2013年4月6日(土)

半日の仕事を終えて帰宅する。疲れのせいか、帰りの電車の中で眠ってしまった。雨はまだ降らなかったが、風が出てきて嵐の前触れのようであった。爆弾低気圧と予報されているので、外出は控えようと思っている。帰宅後、洗面、手洗い、衣服を着替えてテレビをつける。午後2時15分頃からからトマトにお塩を少々ふって食べながらBSプレミアムで、去年の11月4日にあった「いきものがたり」ライブ in 横浜アリーナを視聴する。曲目は「風が吹いている」「ありがとう」「歩いていこう」「じょいふる」「いつだって僕らは」「気まぐれロマンティック」他で、曲以外には特別企画として「風が吹いている-UK recorded version-」が披露され、ロンドンでのレコーディング風景などの映像が流された。作詞・作曲はメンバーの山下穂尊と山野良樹によるものがほとんどであった。楽器編成は3人以外にサキソフォン、トランペット、トロンボーン、キーボード、ドラム、ヴァイオリン、パーカッション、ベースギターなどで総勢20人ほどであった。ライブ編集していたからかも知れないが、スピード感があって、勢いを感じさせるものであった。「いきものがたり」は路上ライブ出身のグループで、アップテンポの曲が多い。








2013年4月5日(金)

午前1時半頃に、何とか詩「未来の言葉へ」を完成させる。早く寝なければ、仕事にひびく。手がかりを見つければ、一気にやるしかない。中断すると詩の女神はどこかへ行ってしまう。そしていつ姿を現してくれるか、わからない。








2013年4月3日(水)

午前6時45分頃に目覚まし時計の音で目覚める。軽めの朝食をとり、いつもより早く出勤する。風雨が強い中、駅へ向かう。各停池袋行きの電車に乗る。座席に座ることが出来て、集中して読書をする。無事に職場に着き仕事を開始する。嵐のためか、患者さんは少ない。











2013年4月1日(月)

午前6時15分頃に起床する。洗面を済ませ、テレビをつけワールドWAVEモーニングを聴きながら、出勤の準備をする。朝食を摂りながらニュースを見る。ヨーロッパ関連は復活祭に関するニュースが伝えられた。中国は北朝鮮側と同じような姿勢で米韓軍事動向を伝えているように感じた。いよいよ新年度の始まりである。午前7時54分に出勤する。

イヴ・クライン(1928/昭和3年ー1962/昭和37年)フランスの画家、モノクローム絵画。1952/昭和27年に来日し、1年あまり講道館で柔道に磨きをかける。心臓麻痺で34歳の若さで死亡。IKBの色!








2013年3月31日(日)

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。 「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」。(ヨハネ福音書20章1節ー2節) ※ラファエロ作:「キリストの復活」(サンパウロ美術館所蔵)











2013年3月30日(土)

「わたしの教えは雨のように降り注ぎ、わたしの言葉は露のように滴るだろう。若草の上に降る小雨のように、青草の上にくだる夕立のように。」(申命記32:2)※アンドレア・マンテーニャ作:死せるキリスト












2013年3月29日(金)

フィンセント・フォン・ゴッホ(1853年ー1890/明治23年)題名:「アイリス」(1885/明治18年5月完成)。サイズ:71×93cm。ロサンゼルスのJ・ポール・ゲティ美術館所蔵。

「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」(申命記15:11)※共同訳











2013年3月28日(木)

芥川龍之介(1892/明治25年ー1927/昭和2年)東京市京橋区入舟町(現:中央区明石町)で牛乳屋を営む家庭の長男として生まれる。江戸時代において芥川家は徳川家に仕えた数寄屋坊主の家であった。










2013年3月27日(水)

グスタフ・クリムト(1862年ー1918/大正7年)作 題名:「ひまわり」(1907/明治40年〜1908/明治41年頃に制作)。帝政オーストリアの画家で「ひまわり」は後期の作品。












2013年3月25日(月)

エドウアール・マネ(1832年ー1883/明治16年)作:題名 「フォリー=ベルジェール劇場のバー」 サイズ:96×130cm カンバスに油彩 1881年/明治14年〜1882/明治15年頃に制作。英国ロンドンのコートールド美術研究所所蔵。












2013年3月24日(日)

サルバドール・ダリ(1904/明治37年ー1989/平成元年)作 題名:「ガラのニュートン Newton of Gala」(1985/昭和60年に鋳造) ブロンズ。長崎県立美術館所蔵。

午後9時からNHKスペシャル「完全解凍!アイスマン 5000年前の男は語る」を観る。アイスマンは1991/平成3年9月16日のにイタリアとオーストリア国境のエッツ渓谷で発見されたのであった。発見されたのは海抜3210mの高地で、氷河地帯にあった。最初、最近の遺体だと思って法医学者などが携わっていたが、人類学者が関わってすぐに先史時代のものとすぐに分かった。放射性炭素年代測定すると、5300年前の人間だとわかった。身長は160cm、年齢は46歳前後、体重は約50kg、血液型はO型、目の色はブラウンと推定された。身の回りで発見されたものは作りかけの矢と銅製の斧であった。2年間の準備を得て、今までしてこなかった完全解凍を行うことになった。完全解凍してから9時間の調査を行い、149点にもなる調査対象物を採取した。アイスマンの胃の中にあった内容物を電子顕微鏡で調べると、動物の脂肪と動物の毛が見つかった。ヨーロッパアルプスに生息するアイベックスなどの動物を食べていたのだ。植物も食べていてハーブもあった。胃の内容物を調べたことで分かったことは、古代の食生活が今まで考えられた以上に多様な食生活であったことが明らかになった。小麦とススの粒子も見つかりアイスマンは何と焼いたパンを食べていたのだ。古代エジプトでパンを食べていたのは約8000年前である。アイスマン時代のアルプスでは狩猟や採集生活から小麦を栽培する農業革命が起きていたことが分かった。歴史的な書き換えが必要となってきた。模様のある皮膚のサンプルからススが発見され、それが入れ墨であることがわかった。現代の鍼灸治療のツボと入れ墨の位置がほぼ一致することも鍼灸治療を行うヨーロッパ人のドクターによって明らかにされた。背中の入れ墨の位置は「胃兪・三焦兪・腎兪」にあたるものであった。足のツボは曲泉と崑侖であった。放射線科医の博士が調査したらアイスマンは「腰椎すべり症」を患っていたことが明らかになった。アイスマンは腰痛治療に針治療を行っていたと考えられる。今まで鍼灸治療は2000年前の古代中国で行われたとなっているが、その書き換えも行われる可能性が出てきた。アイスマンの死亡原因も探られた。結論から言えば、アイスマンは殺されたのであった。アイスマンは何者かによって背後から弓で肩を射られ、さらに医師で右側頭部を殴打され脳出血を起こして死亡したのであった。脳の中の遺物を調べたら赤血球の集まりであったからだ。犯人は矢を抜くためにアイスマンを俯せにした。その時、アイスマンの左上肢は肩関節水平屈曲となり、現状のような体の形となったと考えられる。