microcosmos  4

日々の思索

霞ヶ丘日記(110)

2015年(平成27年)12月31日(木)

午前6時ごろに目覚める。暫くしてから起床する。一年の疲れが出たのか体が重く、何もやる気が湧かない。ただぼーっとしている。歳をとるということは、悲観する材料が増えるということだけではない。良い面もある。若いときよりもいろんな点で、物事を理解できるようになる。あーすればこうなる、こうすればああなるというように先が見えてくる場合が多々ある。そして経験がその人に落ち着きを与えてくれる。





2015年(平成27年)12月30日(水)

自分に常に求められるものは、抑制と忍耐である。抑制と忍耐がある者のみに、秘密は明かされる。抑制と忍耐なくして人は何をなそうというのだろうか。アラームの音で目覚める。午前6時を過ぎていた。朝風呂する。午前7時25分頃に出勤する。お天気は晴れ。雲少しあり。風はなし。車窓から朝陽が射し込み僕の顔の上で戯れる。日本が戦後70年を概ね平和であり得たのは平和憲法だけではないはずだ。人々の平和への切なる願いがあったらこそだと思う。埼京線武蔵浦和駅から見事な富士山が姿を見せているが、富士山も平和あっての富士山さんのように思える。非核三原則、武器輸出三原則、平和憲法堅持等、日本が掲げてきた平和への取り組みが砂上の楼閣のようになろうとしていることに危惧する。日米同盟も対等な関係で結ばれていない。地位協定を見れば明らかだ。慰安婦問題に限らず、根幹のところでは戦後は終わっていない。憲法改正が自主憲法を求めてというが、内実はアメリカの戦略上にあり、アメリカの準州になろうとするかのようだ。






2015年(平成27年)12月29日(火)

日本は本当に平和なのだろうか。戦後70年経っても米軍基地が日本各地にこれほど多く存在していることは、異常なことではないだろうか。70年の平和国家としての歩みは今や水泡にきそうとしている。午前6時17分頃に起床する。午前7時23分頃に出勤する。お天気は快晴。風もなく穏やかな朝である。東上線武蔵野線埼京線を使う。マルエツで食品を買ってから職場へ向かう。






2015年(平成27年)12月28日(月)

午前1時半ごろに就寝する。午前5時8分頃に起床する。用を足す。体重計に乗る。洗面と歯磨きをする。浴室に干していた衣類を畳んで収納する。新たに洗濯し終わった衣類を干す。二袋の生ゴミと瓶、空き缶類をゴミ集積場に運ぶ。外はまだ暗かった。外に出ると寒気におもいっきり抱き締められる感覚だった。郵便受けを見る。戻って朝食の支度をする。ニュースを見ながら食べる。午前6時40分頃に出勤する。空は雲があるが晴れである。風は吹いていない。マフラーを巻いて駅へ急ぐ。横浜元町中華街行きの電車に乗る。席が運良く空いていたので座る。鞄は網棚に置いた。乗客は何時もより少ないように思う。車中では読書に励む。クロード・レヴィ=ストロースの「野生の思考」を思う。「科学的思考」に支配された思考が如何に野蛮な行為をするのかを考える。






2015年(平成27年)12月27日(日)

無条件に愛情を感じるという経験、これこそ人間の決定的要因である。部屋が寒い。午前6時10分頃に起床する。用を足す。洗面と歯磨きをする。コーヒーメーカーで珈琲を煎れる。書斎に入り、読書を開始する。外はしらみはじめて、朝陽が来るのを待ちわびていた。過去の特に若い頃の失態や失敗そして罪な事柄が急によみがえってきて、急ブレーキをかけた乗り物のようになるときがある。昨日それが起きた。どうにもならない過去のこと。叫び声をあげたくなるような一瞬だった。否、心の中では言葉にならない声をあげていた。過去は生きている。過去はあったということを主張し、覆い隠されたものが表に姿を表す時を待っている。僕は過去は過去、今は今というように分けることは出来ない。過去も自分の一部であり、切り離すことは出来ない。過去があっての今という捉え方も出来るだろう。分割されない全体としての自分のあり方。自分にとって不都合なものは、全体から切り離してしまえという考えは、ご飯粒の中に紛れた小石を噛み砕くようなものだ。顔を背けないで自分と向き合わなければ、自分と良好な関係は作れない。
良書を読むことは浮わついた気持ちを安定させ、散り散りになった意識を統一させてくれる。お風呂に入ろうと立ち上がって机の角を回り込もうとしたら、コーヒーカップを落としてしまった。三分の一ほど入っていた。慌てて直ぐにこぼれた液体を拭き取った。書斎の座るところはコックピット気分で狭く配置している。座れば直ぐに作業が出来るように、集中力を出すことが出来るようにとの思いでセッティングしている。午前9時40分頃から入浴する。午前10時半から読書を再開する。内面世界は政治的ではあり得ない、非政治的である。午後3時から読書を再開する。





2015年(平成27年)12月26日(土)

午前4時35分頃に目覚める。暫くしてから起床する。小用を足す。洗面と歯磨きをする。書斎に入り、読書を開始する。珈琲を煎れる。自分の生活に規律を与えて読書に励もうと思う。真実を語ることは難しい。意識と言葉はちょっとしたことで虚飾にまみれてしまう。だから僕は誠実な本を読む必要がある。午前7時20分頃に出勤する。お天気は晴れ。雲もかなりある。通勤電車は乗客が少なく楽に座ることが出来た。武蔵野線の車窓から東の空が淡い夕焼けのように色づいていた。






2015年(平成27年)12月25日(金)

午前4時45分頃に目覚める。午前5時頃から書斎に籠り、読書をする。考えるということは生活の中から、仕事の中から生まれてくる。その積み重ねの中から、思想というものが芽を出してくる。そしてそれは多くの人の経験が踏み固めて、ひとつの道を作って行く。それを伝統と呼ぶことも可能である。思想はほんの一握りの人たちが作るものではない。一人一人の尊い人生があってこそなされるもの。だから生活と仕事の質が問われる。今日一日が大切になってくる。仕事を終えて、帰宅の途につく。プラットフォームから満月と思われる月がはっきりと見える。この月は西行芭蕉も見た同じ月であることが感慨深い。





2015年(平成27年)12月24日(木)

静かに自宅でキリストの御降誕をお祝いする。幼子は今日僕の心に喜びをもたらした。






2015年(平成27年)12月23日(水)

午前3時少し前に目覚める。小用を足す。洗面と歯磨きをする。珈琲を煎れる。書斎に入り、読書を始める。読書をする効能として、ものとの距離感をつかめるようになることだ。厳密に言えば、読書をした結果ということになる。直ぐに結果が出ない場合もある。読書もまた内面への旅である。今の環境問題は地球規模で行われている人間の活動に起因する。産業革命が人間にもたらした最大のものは、時間の加速である。よりゆっくりということではなかった。より速くより効率的にという目標である。資本主義や共産主義等がもたらす全体的なシステムは人間を何処に導こうというのだろうか。環境問題とヨーロッパで育った若者がISの手先になることは、根っこがどこかで繋がっているように思えてならない。人間が作り出してきた地球規模のシステムの中で、社会福祉という概念がいかに重要であるかが明らかになってくる。しかし、持てるものと持たざるものの差は拡大するばかりである。社会福祉とは名ばかりの状態にある。社会福祉が国の力とならないのにはいくつかの理由が考えられる。社会福祉が人々の希望となるためにはどうすればいいのだろう。人々はそれぞれの空の下で苦悩している。その痛みを見て見ぬふりをどうしてできるだろうか。歩む道の何と遠いことか。午前10時40分頃に書斎をでて、休息をとる。パルシステム埼玉に2回分の注文を出す。午後9時18分頃から「もうひとつのショパンコンクール」を視聴する。ショパンコンクールは舞台裏での調律師のコンクールでもあった。





2015年(平成27年)12月22日(火)

午前4時50分頃に目覚める。暫くしてから起きて、用を足す。床に戻る。午前6時10分頃に起床する。お風呂の浴槽と蓋を洗う。お湯を溜める。朝食を食べながら、国際ニュースを見る。ロシアでは記録的な暖冬と報じている。イギリスでは洪水被害に見舞われた町を、チャールズ皇太子が慰問していた。スペインでは若者が立ち上げた新しい政党が、二大政党に割って入った。日本で言えば、学生のシールズが大きな政党となるようなものであろうか。若者の間で既成政党に対する不満が燻っているのは、各国共通ではないだろうか。入浴する。午前7時10分頃に出勤する。今日は冬至。お天気は快晴である。風もなく穏やかな朝である。明日の祝日もこのような天気であるように願う。新木場行きの電車に乗る。ふじみ野駅で急行池袋行きの電車に乗り換える。成増駅で始発の各停池袋行きの電車に再度乗り換える。国際興業バスの路線バスに乗る。最後列の座席に座る。読書をする。帰りの電車でも読書した。






2015年(平成27年)12月21日(月)

目覚めてしまい、書斎に入り、口頭試問の準備をする。深夜の読書。一日の仕事を終えて、帰宅する。夕食後、仮眠をとる。午後9時から書斎に入り、読書を始める。






2015年(平成27年)12月20日(日)

午前2時15分頃に目覚める。一通りのことを済ませて書斎に入り、口頭試問のための勉強をする。過去の記憶が僕を炙り出してくる。苦いものが口中にしみだしてくる。使うべきでない言葉をよく吟味しなければならない。僕が求めているのは想像力を喚起する言葉だ。過去の記憶を辿ることは、人生を読みなおしているようなものだ。日本語には感傷的な言葉の森があるので注意しなければならない。自然は僕の感覚を通して内面化への道を進む。僕は自然を言語化する。言葉への信仰と呼ぶべき傾きは決してイデオロギーとは違うものである。午前10時からのミサに与る。聖体を拝領する。ミサ後、告解をする。西友で買い物をして帰宅する。雲一つない青空で、風もなく穏やかな日曜日である。家と駅の中間にある二本の大きな欅の木は、落葉して冬の装いとなっていた。夜、ワイルド ジャパン「魔法にかけられた島々」を視聴する。登場したのは知床のヒグマ、流氷で過ごす渡り鳥のオオワシ釧路湿原の丹頂鶴、野付半島エゾシカ、信州の地獄谷に生きるニホンザル屋久島のヤクシマザルとヤクシカ、ウミヘビをとる女性たち。続けて午後9時から、「新・映像の世紀 第三集」を視聴する。ヒトラーの野望、愛人エヴァ・ブラウンヘンリー・フォードによるナチス党支援、反ユダヤ主義共産主義ファシズム、イタリアのムッソリーニ、成り上がりもののヒトラードイツ国会議事堂炎上、全権委任法、ナチスの暴力による議会支配、マルティン・ハイデッガーナチス入党、アウトバーン、国民車フォルクスワーゲン、ポルシェによる設計、独裁者、チャップリン、ココ・シャネル、アメリカの親ナチ団体、空の英雄リンドバーグナチス礼賛、ナチス軍による共産主義に対する絶滅戦争開戦、ショスタコーヴィッチ作曲「レニングラード交響曲」、真珠湾攻撃マンハッタン計画原子爆弾投下、ムッソリーニの死、ヒットラーエヴァ・ブラウンの死、第二次世界大戦終結V2ロケット、東西冷戦。





2015年(平成27年)12月19日(土)

「この迷宮を踏査するのは苦しいことだが魅力もある。この悟性の〈コンチェルト〉には私を興奮させる多くの楽節があったし、啓示を与える楽節も、苛立たせる楽節もあった。私は喜びのために読書するので通常ノートはとらないが、レヴィ=ストロースを読むことできわめて多くのことを発見し、多くの疑問に目覚めたので、知らず知らずノートを作った。本書は私の読書の結果である。それは私の印象と深思の要約であり、なんら批判的な主張を有しているものではない。」(オクタビオ・パス著『レヴィ=ストロース 光と翳』) ”多くのことを発見し、多くの疑問に目覚めた” ”喜びのために読書する” ”苦しいことだが魅力もある”
朝陽の中を出勤する。朝風呂したために、時間が押し寿司のように窮屈になってしまった。電車が来るのを察知して、駅前から走った。エレベーターをかけ登り、階段をかけ降りて電車に人をかわしながら、飛び乗った。暫く息があがって苦しかった。埼京線の電車から富士山をはっきりと見ることが出来た。透明感のある朝。心もこのように澄みきっていればと思う。自然は僕に多くの感覚の示唆を与えてくれる。感覚を通して内面化される自然。







2015年(平成27年)12月18日(金)

クロード・レヴィ=ストロース著『生まのものと料理したもの』を読んだ。この本はとりわけ難解であり、読者は著者のあとからボロロやジエのインディオの神話の茂みを通り、曲がりくねった道を巡礼するとき、一種の知的目まいに襲われる」。(オクタビオ・パス著『レヴィ=ストロース 光と翳』より)
お天気は快晴。今朝は東武東上線武蔵野線埼京線を使って通勤している。車窓から陽射しが燦々とさして、顔を背けないと困るほどだった。埼京線の電車からははっきりと富士山を見ることが出来た。






2015年(平成27年)12月17日(木)

オクタビオ・パス著『レヴィ=ストロース、光と翳』今 防人訳(新曜社)を読み始める。パスの本はこれまで『弓と竪琴』、『メヒコの時間』、『孤独の迷路』、『大いなる文法学者の猿』、『オクタビオ・パス詩集』、『続 オクタビオ・パス詩集』を読んできた。それらに続くものだが、久しく遠のいていたので、間が空きすぎた感は否めない。どうなるか先のことはわからないが、パスによってクロード・レヴィ=ストーロースの扉が僕に開かれるかもしれない。パスのこの本の目次だけ見ても、想像力が息を吹き返してくるようだ。1章 地質学の隠喩 ことばの交易と性の交易 2章 象徴、隠喩、方程式、立場と意味。アジア、アメリカ、ヨーロッパ。三つの透明なものー紅、毒、イタチ。精神ー何ものでもないある何か。 3章 耳ざわりな間奏曲。シンデレラと他の閑話の擁護。ことばの三角形ー神話、叙事詩、詩。 4章 質と概念ー対と対の組、象と虎。直線と円。進歩の悔恨。摂取、改宗、放逐。黄金時代の終焉、エクリチュールの開始。 5章 慣習的行動と象徴。然りか否か、多いか少ないか。人間の無意識と機械の無意識。破壊しあう記号ー変容。タクシラ。 パスはクロード・レヴィ=ストロースに取り組むことになった経緯から語りだす。「15年ほど前に『親族の基本構造』に関するジョルジュ・バタイユの論評がクロード・レヴィ=ストロースの存在を私に啓示してくれた。同書を購入して何度か虚しい努力の後、読むのをやめた。人類学に対する私のアマチュアとしての愛好心や(近親相姦のタブーという)主題への私の関心は、同書の専門性にぶつかって砕け散った」。パスほどの知性を持っている人でもクロード・レヴィ=ストロースの専門性に砕け散ったとは、何ということだろう。僕には到底無理だ。パスの言葉を聞いて、すぐに白旗を挙げてしまった。パスは一度は砕け散ったが、そこから這い上がってこの本を書き上げたのだろう。そこにはどんな精神的なドラマがあったのだろう。パスの言葉を再び聞こう。「昨年『ザ・タイムズ・リテラリー・サプリメント』(ロンドン)の記事が再度私の好奇心を呼び醒ました」。私は『悲しき熱帯』を熱心に読み、引き続き、ますます目くらむ憶いで『構造人類学』、『野生の思考』、『今日のトーテミスム』そして『生のものと料理したもの』を読んだ。」もしクロード・レヴィ=ストロースの本を読むとしたら、パスが読んだ順番に同じように読もうと思う。これはこれは、白旗を上げたものが何をいうのだろう。とらぬ狸の皮算用だな。






2015年(平成27年)12月16日(水)

人生が如何に残酷な要素を含んでいるか、人は知る必要があるだろう。午前5時44分に目覚める。午前6時15分頃に起床する。用を足す。お風呂のスイッチ入れる。浴室に干していた衣類を畳んで収納する。体重計に乗る。入浴する。入浴後、国際ニュースを見ながら、朝食を摂る。午前7時10分頃に出勤する。お天気は快晴。気持ちのよい朝。通勤急行池袋行きの電車に乗る。乗換案内を検索する。志木駅で下車して始発の各停池袋行きの電車に乗り換える。座席に座ることが出来た。一息つく。自分は秘密だらけで、謎として生きている。どうして謎なのか。一つは何事においても、納得していないからだ。心の中でどうして、と呟いている自分を発見する。一つは自分自信が固定したものではなく、僕という人間はある状態にあるという存在でしかない。ある状態からある状態へ移るという現象として生きているのが、僕なのだ。どうしてそうなのか?僕にはわからない。秘密だらけで、謎としか言いようがない。僕の勉強とは謎解きにほかならない。そのために普通に生活することが大切だ。内面の深いところに拠り所を求めよう。そして生き延びよう。未来は誰にとっても不確かなのだから。






2015年(平成27年)12月15日(火)

午前0時20分頃に書斎に入り、修士論文に取り組む。午前4時45分頃に書斎を出て、床につく。午前6時15分頃に目覚める。午前7時10分頃に出勤する。お天気は曇り。体力を消耗しているためか動きが緩慢である。新木場行きの電車に乗る。ふじみ野駅で急行池袋行きの電車に乗り換える。成増駅で各停池袋行きの電車に乗り換える。国際興業バスの路線バスに乗る。ローソンで買い物をして、無事に職場に着く。午後8時前に職場を退出する。何時もと違いJR埼京線を使って池袋へ出る。東口にでてキンコーズ東池袋店へ行く。USBに入れてある修士論文の3人分のコピーと2穴の穴空けを依頼する。出きるまでサイゼリアで食事をする。携帯電話がなり、キンコーズからで出来上がったことを伝えてきた。豊島郵便局迄歩いていく。修士論文を大学院へ郵送する。まだまだ不十分であったが、明日が提出最終日だったために仕方なかった。来年の1月に口頭試問がある。勉強は続く。午後11時10分頃に帰宅する。BSでドキュメンタリー番組「ヒトラー権力掌握への道(後編)」を視聴する。同50分頃に床につく。